セルフネグレクトからの脱出を図るブログ

セルフネグレクトと自覚した2018年1月からなんとか脱却するために書き始めました。その記録と心情の変遷です。

フラッシュバック

止まってしまった。

 

何もかもではない、けれど動き出したものが止まってしまった。止まってから1ヶ月経ってしまった。

 

息子の部屋は少しは床見えるけど、私の部屋はなんの整理もされていないゴミやら衣類の混ざった資材置き場みたいになってる。ブルーシートも敷いてるし、ますますそんな感じだ。

それを毎日見るたびにうんざりする。

 

洗い物を溜め込んだキッチンにうんざりし、

色柄ものと一緒に洗っちゃった白いバスタオルがグレーになったのにうんざりし、

埃は後から後から出てくるからいつも部屋の隅は埃だらけで、うんざりする。

 

 

私このところ、ずっとフラッシュバックを起こしてるんだなということにやっと気づいた。

PTSDの再演をやっちゃってる。息子に怒鳴り散らす。そのあと謝る。これはDVだ。DVの再演をやってしまっている。

 

やっとやっと、自覚出来たけどもう息子には呆れられてて

 

「はいはい、また謝るんでしょ」

 

なんて言われるからどうしていいのかわからない。

 

1月半ばから更におかしくなった。

母は私の事を、私が息子を想うようには大切に考える能力がなかったんだ、と分かってゾッとした。

 

これまでいろんな場面で、何度もあれほど助けを求めても、彼女は、帰ってこいやら代替え案やらは全く出さずに、

「どうしたらいいんでしょうね?今日は仕事でね…」

と話を流してしまう。

 

辛いんだ辛いんだ辛いんだと、子供の頃から彼女に発信し続けていたのに取り合ってくれなかったのは、理由や原因はよくわからないけど、例えばアスペルガーなのかなんなのか、乖離なのか、とにかく私の叫びを感知するセンサーが彼女にはもともと無かったんだ。

産んだ子供を、育て導く生き物として見ていなかった。

愛してないわけじゃないらしい。

けど、

『愛するということは例えばこうすること』

というものが悉く私と違っているんだ。そう、理解はしたけれど、でも、でも、わかって欲しい、とほぞを噛む。

 

こないだの千葉の虐待死の事件で、母親が殺人幇助で捕まって、私の中で更に何か動いた。

 

子供を産んでから観る虐待死のニュースは毎度辛くて仕方なかったけど、なんとか慣れて来てた。

 

でも今回は母親が捕まった。起訴されるかどうかはわからないけれど、社会的責任を放棄したという、これは罪。犯罪だ。

でも彼女が、娘に暴力が向かっている時には私は殴られないで済む、と考えるのはとてもよく分かる。私の子供時代だ。

 

夜中父があんまりにも暴れると、母は寝ている私を起こして(まあ怒声で目は覚めてる)家を飛び出た。

パジャマのままの私の両腕をそれぞれ父と母が握って、「これは俺の子だ!」「私の子よ!」と団地の階段の上と下から引っ張り合われたこともある。

そして命からがら母の友人宅に逃げ込むのだ。

 

何度かそれをやったある日、母はその友人から夜中家に来ないでくれと言われる。

 

隣の家の奥さんには

「ご主人、お酒が問題なんだと思うから、酒害の病院行ってみたら?」

と諭されたらしい。

それからどこだかでも相談して、

 

『ご主人が暴れている時に娘さんと一緒に出ないほうがいい』

 

的な事を言われたそうだ、それから母は暴れる父のもとに、私を置いて逃げるようになった。

 

母曰く、

 

『そのまま自分が居続けたら殺されるかもしれないけど、自分の血の繋がった娘なら夫は殺しはしないだろう、だから娘を置いていこう』

 

となったらしい。

 

だから私は小学生中学生の頃、母が飛び出た後の家で父と二人きり、荒ぶる父を宥めて寝かしつける役になった。

父が吐く母への罵詈雑言を聞き流し、

あの女は売女だなんだと大声をあげる父のお酌をし、

心臓の具合が悪い胸の音を見てくれと言われれば胸に耳を当て、

不整脈が出ていないか見てくれと言われれば腕で脈を取り、

肩が痛いマッサージしてくれと言われて腕を揉んだり背中を揉んだりして、

ブツブツ文句を言いながらそのうち父は眠くなって寝室に倒れてイビキをかき始めたら、私は父の寝ている部屋の襖をそっと閉めて、

今度は家の電話に張り付いて、公衆電話からかけてくる母のコールを家の電話口でリン、ともならないうちに受話器をあげ

 

「パパ寝たからもう帰って来ていいよ」

 

と伝える。なんかそんな役目になった。

 

とか何とかしてたら今度は仲裁役として叩き起こされて、彼らの話しを私のお気に入りの曲が入ったテープに上書き録音されて、どっちの言い分が理に適ってるかをジャッジする役目になった。

物凄くめんどくさいし、眠いし、母を悪者にすると父は尚更怒りをぶちまけるから、なるべく両成敗で、慎重に言葉を選んでなんとか収められた日もあった。

無理な日もあった。そんな翌朝は寝不足で学校に向かった。

そして私が大きくなるにつれ父の期待や依存は私に向くようになってきて、それに適わない時には怒鳴られたり殴られたり蹴られたりするようになった。

 

私は幼い頃から親の金を盗んでは友達に奢って夕方遅くまで一緒にいてもらっていて、それが見つかっては殴られたり怒鳴り散らされたりしてた。

夜母が戻るのが遅かったから寂しかったんだと思う、それからファンシーショップの可愛らしい文房具を買う事で、自分の空虚感を満たそうとしていた気もする。洋楽のカセットもたくさん買った。付属で付いてきたポスターをはっていたら怒られついでにビリビリに破られた。

 

 

今回の事件には死んだ女の子が親に児相宛の手紙を書かされていた。

 

それを見て、いきなり私が何枚も書かされた念書を思い出した。古い大きな水色のテーブルの上に、父の職場か母の職場のロゴが入った紙を置かれて、何度も何度も書いた。

 

「盗んだ金は遊興費に使いました。二度とやりません」

 

とかなんとか。拇印も押したかもしれない。その隣には

 

「早く書いちゃいなさい」

 

と小声で急かす母が立ってた。

 

今回の事件で、この日本でやっと母親が殺人幇助になるのなら、罪に問われるのなら、殺されないまま大人になった被虐待児の件はどうケリつける?って気持ちになった。

 

父からの暴力で母が乖離してしまって記憶をほとんどとどめてないのはわかるし、

私がしていない事まで父の妄想で夜中まで私を責め続けた父と母は罪に問えるんじゃない?(私がカラオケボックスで男とヤッたと決めつけた。してない。男と行ってない)

その日あんまりにも責め続けられて、「男とカラオケに行ったことを正直に言え!」とかことを言われ続けて手首を切った。

手首を切ったら、「ごめん、私たちが悪かった」って言ってくれるかなと思ったのだけれど、親を傷つけるためにやったなとまた怒られて、病院へは体裁を気にして直ぐには連れて行ってくれなかった。

血は朝まで止まらなくて、病院に行かせたくない父を母が説得して私と母は近所の小さな外科医院に行った。

外科医は「なぜ直ぐ連れてこない!」と母を叱ったそうだ。

私も朝まで起きていなきゃでしんどかったのを覚えてる。意識を失って病院で目が覚めてうなだれる親達、とかはドラマの中の絵空事だと知った。

 

私が中学受験に失敗して行った公立中学に父が校則の件で唸り込んで行った事があった。

先生は社会的にまずまずの地位の父が吐く人権とか憲法とかにヘトヘトに疲れて、私を見放した。当時生徒数も驚くほど多かったし、厄介な親のイジメにあってる生徒なんて面倒だったんだろう。私は3年間イジメに合いながら家では酷いDVにも合い続けた。私を目の敵にした体育の先生は生理で休んだプールの日、1時間中丸々校庭を走り続けろと指示した。イジメだなあ…と思いつつ、クラクラしながらぐるぐる校庭のオーバルを走った。

そのことを知ってた先生達は、じゃあ罪に問える?

 

私が殴られてる事を知っている友達の親達も沢山いた。ねえ、じゃあ、あの人たちも裁けるの????

 

と、考えてしまった。

 

実際には、めちゃくちゃ不憫に思ってくれていたのは知ってるし、怒号を聴いていた向かいの団地の人は「娘さんうちに遊びに来させて」と母に声をかけた。児童文学の研究をしているどこかの女子大の先生だった。遊びに行ったけど、秘密の庭みたいな洋書に囲まれた部屋で、私は彼女の大切にしていた本を盗んだ。そして、行きづらくなって行かなくなった。

 

あの当時、世間は他所の家の事情に立ち入る時代じゃなかったし、だから知っていた人達にもどうしようも手の施しようもなかったんだとわかる。

 

わかるけど、でもじゃあ母は?

あの人私をライオンの檻に投げたよね?それ、罪に問えるよね?  って考え始める。

 

でも父に逆らえない、従属するしかなかったのもわかる。あれは暴力に寄るマインドコントロールだ。

私も未だ父に逆らえない。

だから逆らう為になのか、なんなのか、何も言わず、見せず、小さい頃から悪行を沢山働いた。大人になったらもっともっと悪くなった。

 

なんとか更生して人の親になったけれど、

未だ父には逆らえない。最悪だ声も聞きたくない顔も見たくないと思うけれど、逆らえない。

 

父を嫌う私に従兄弟が

 

「でもお父さんの言うこと聞くよね、」

 

と言った。

嫌いならば言うことを聞かないものなのか、でもそんな選択肢はなかった。

もし逆らったら1万倍で返ってくるだろうし、だから思いもつかない。恐怖に支配されて、全く逆らえなかったんだ。

 

父に殴られてたある日、もう頭に来て殴り返そうとした事もあった。胸ぐら掴まれながら私が腕を振り上げると、

「なんだ!?親に手をあげるのか!やれよ!ほら!ほら!」

と私の手首を握って自分の頰に軽く当てた。

そしたら私は殴れなくなって、でも漲る拳の引っ込めどころもなくて、なので代わりに自分の顔を殴った。結構ボコボコにした。そしたら鼻血が勢いよく出て、それを見た父が

 

「馬鹿なやつだ!」

 

とか捨て台詞を吐いて、私を離した。

 

そうか、血を見せればいいんだ、と、それからはよく流血沙汰にした。

 

母は今病気で、だからもう今更こんなこと言ったって届かない。だいたい何も覚えてないし。

 

「あなたは小学生の頃は手のかからない子だった」

 

なんて、私が同級生の親から

“あの子とは遊んじゃいけない認定”

受けてたことを忘れてる。

何もかも忘れてる。

父の暴力の話をした時、

 

「私はその時そこにいたの?」

 

とか言う。私は彼女を守り続けたつもりだった。

そして彼女は忘れてる。

生きるための乖離なんだろうけど。

 

だから彼女は

 

「私が見ている景色とあなたが見ている景色は違う」

 

なんて言う。

でも事実うちは酷いDV家庭だった。近所が知っている。

 

「よく人格障害にならなかったね」

 

と、2人の医者から言われた。二回別々に言われたから多分そうなんだろう。

私多分めちゃくちゃ精神が強いんだ。

ビリーミリガンみたいになっちゃってもおかしくないのか、ってことだ。

 

そして、そのフラッシュバックが出ているここのところ、私は息子にトラウマの再演をしていたんだ、と気づいた。

 

去年も今年も年明けは気づきがあるな。

 

気づいたところでどう扱っていいのかよくわからないのだけれど、まあとにかくママが狂ったら逃げてくれマジごめんと伝えるしかない。

 

あの、私が座っていた食卓のテーブルの手触りを思い出した。後ろにあった食器棚も、台所の西側に開いた窓も。

 

涙が止まらないと鏡をみて、

「ブスが泣いていても絵にならないから泣くな」

と涙を止めた。

 

私、あれ小学生とか中学生とかだったよな、と、あのテーブルの席に座る私が可哀想で可哀想で、逃げるって選択肢なんてなくて、死にたいと毎日思いながら耐えてたなと思い出した。

 

父から怒られた次の日、学校から帰りたくなくて友達の家に行って、泊めてもらうことになって、それを友達の親がうちの親に電話したら

 

「誘拐罪で訴えるぞ!!返せ!!」

 

と相手の親脅して、

 

「ごめんな、うちでは無理だわ…」

 

と言われながら夜の街に帰された事もあった。

居場所がなかった。仕方がないので帰ってまた叱られた。

 

思い出したらきりがない、

気持ち悪いことも沢山あった。

まあでもともかく、そんなのが良く生き延びて、ぐちゃぐちゃながらも子育てして、子供にはごめんなあと思う。要らないめんどくささをあんな無垢な子に与えることになってしまった。

 

 

お風呂は入れてる。

歯磨きも。

歯医者にすら行った!

部屋は片付けられてない。

朝ごはんは作れる。

 

また食材を買って腐らしては有料ゴミ袋に入れる日々。

洗濯はしてる。

 

自己嫌悪とばかり戦ってる。

 

生きることは苦痛だと、子供に教えてしまっていた気がする。

 

生きることは楽しいんだ、好きなことすればいいんだって教えたい。

 

母の治療の話も、もう聞きたくないけど電話が掛かってくる。

 

「もしもの時はお前が助けろよ」

 

と、泥酔した父に言われた。

 

私もなるべく頑張りすぎないようにしよう。

まだ溢れかえるフラッシュバック。

 

愛を感じて育った人の子たちは、ちゃんと愛を伝えられているだろうな。

前夫はダメ男だけど、親には愛されてると自覚してたから、まだマシなのかな。

 

うちの家は

『家族なんだから』

という呪文で覆いかぶさってくる。呪縛だ。

 

もやもやしたまま、取り敢えず書いてみた。