セルフネグレクトからの脱出を図るブログ

セルフネグレクトと自覚した2018年1月からなんとか脱却するために書き始めました。その記録と心情の変遷です。

神様神様、知ってしまったよ

いろんなところから、母の友人や叔母や前夫から話を聞いてほんと分かった!私は母からネグレクトを受け、父からDVを受け、母から女としての嫉妬をされ、なのに私自身は気づかずに、ずっと母を守ろうとしてたんだと。父が悪いと思ってた。でも母だ。ああいう男の世話をして生きるために私を踏み石にしたんだ。結局彼女は好きな男に死に水を取られる。望み通り、叶った形だ。父は母と一緒にいる事で彼自身の秀でた才能を曇らせて落ちぶれた。そして母の掌で、未だ内弁慶だ。ああしちゃダメだなと思った。私は息子の手をちゃんと離せるだろうか。甘いだけじゃ才能なんて腐っちまう。私は自分の才を伸ばしてはもらえなかったけど、だから才の伸ばし方など知らないけど、なるべく外から教わって息子の才を活かしたい。そして私が子供の頃もらうはずだった承認はどうやって満たせばいいのか未だ分からない。こんな、半世紀近く生きてきて、今更こんなおばさんに誰があなたはそのままでいいよと言えて、どの人の言葉を私が受け入れられるのと想像するともう無理なもんは無理なんだなと思う。息子だけは、私みたいになってほしくない。だから、色々情報を仕入れながら愛してサポートして見守りたい。私の痛みはもう多分消えないのよ。多分ね。好きな人も去って、もう6年過ぎるかな、5年かな、彼に求めてたのは親からもらうはずの承認欲求だったんだなって思う。彼は多分IQの高いアスペルガーだから、これまで覚えてきた言葉で私を愛したんだろう。彼の気持ちというより、ここで完璧な返答、模範解答をしてくれたから私はさらに傾倒したんだろう。彼は私のことが好きだった、それは間違い無いと思う。でも普通の恋のように、ラブやエロスで、それはアガペーではなかった。それを私はいつも勘違いして、友人や、恋人に光る承認の糸口を見てしまうんでしょう。母は私の事を愛していたけど、私の魂ごと面倒を見ようとはしなかった、だから夜遅くまで放って置いてもあの子はしっかりしてるから、で彼女の中では大きな問題にならなかったし、私の中でも彼女を守るため、「お仕事してるお母さんの子だから」とか「お父さんのお酒が悪いから」という世間からのレッテルを跳ね除けようと頑張ってたんだと思う。子供ながら。

だから世間を呪ってるんだ、見てみるふりして、見殺しにされた気がして。私はたまたま死ななかったけど、死んでもおかしくなかったんだなと、そんな風に娘を踏み石にした母も憎いし、まあ父はもちろん早く死ねと思う。私の心なんて誰も大事にしてくれなかった。

私が大事すればいいんだろうけど、今はなんだか悲しみとか憎しみとかでも愛してるとかが綯い交ぜになって、苦しくて搔き消したくて酩酊していたくなる。友達にもこんな感情渡せない。渡せないというか、受け止められる人なんていないだろうと思う。私がなんでこんなに不甲斐ないのかがわかってまあ良かった。私のせいって思い込んでしまうことはなかなか手離さないけど、まあ養育環境のせいだ。

私はそして、算数LDでもあると思う。少ない数の足し引きが本当に苦手で、だからレジ打ちとか個数合わせとか苦手だったんだなと思う。算数LDの種類についてはあんまり調べてない。本当は答えが知りたいけど、なんか掘ってくのも気持ちがしんどくなって。

お化粧はできてる。大進歩だ。お風呂は面倒くさがり始めてて、やだなあ。

でも今自分の環境を妥協せず、なるべく納得行く状態に近づけようとしようとしてる。

というか、それをしてないと恨みと怒りで壊れそうで、だから酩酊しながら模様替えしてる。何ヶ月続けてんだか、うんざりだし、その報告を聞いてる友達ももう呆れてるだろうと思う。相槌さえ打ってればいいくらいに流されてるかなとも思う。大人とはそのくらいの距離で本来丁度いいのだろうけど、私はもっと深入りして貰えないと寂しくて、渇望する。愛を、過干渉な愛を。

あの人、私の事好きだったんだろうけど、私とのセックスと、私との金銭バランスがあの時の彼にとって丁度良かったんだろうな。そして私は、彼がしてくれること、例えば駐車場の手配とか、私の欲しそうな飲み物を買っておくとかにひどく耽溺してたんだろう。そんな愛され方が物珍しかったんだろう。大好きだった。でも2人でぐっすり眠れることはなかった。私はいつも緊張してたから。今みたいに眠剤を使えば良かったのだろうけど、その頃は病院に行く選択肢がなかった。心地良かったのは多分結婚しながらそこから避難してからの部屋へ行くのが、私のこれまで人生通りで楽だったんだろう。子供の頃から、私は二面性を保つことで生きてた。多分相当なストレスで、それを和らげるために、親の財布からお金を盗んでは私の好きでたまらないものを買ってた。洋楽のテープばかりなんだけど、あれが私のもう1つの世界だったんだろう。歪んでて、だから息子にはそんな思いをさせたく無い。私は離婚してしまったけど、前夫は息子のことを盲目に愛してるし、それを息子も感じてるからそれはそれでいいのだと思う。進路や日常生活については私とぶつかっては大喧嘩したりしてるけど、それでいいんだろうと思う。それでいいであって欲しい。

ネグレクトで子どもが死んだり、世間に見殺しにされて大人になって犯罪を犯した事件を見るたびに、分かるよ、憎いよね、なんでこんな棄てられ続けたのかって悔しくて、悲しくて、やりきれなくなる気持ち、分かる気になってしまう。何度も死のうと、というか子供の頃から恒常的に死にたかったけど私は今普通の人たちとも話せて、子どもがいて子供を育てて、だから愛と仕事を優先して子供を踏み台にした母とは違うはず。下手だけど下手なりに育ててるはず。

不思議、女であることをとった元母親たちを私責める気が毛頭しないしそれはそれでいいと、そんな形もありだと、子育てが徹底的に出来ないタイプの女だっているって理解してるのに、母には憎しみと渇望ばかり募る。

5月半ばに書いたらしいものと、今を書く。というか貼る

5月半ばも過ぎてしまったわ。

驚き。ダイエットは上手く行ってない。季節外れの梨を主食にダイエットしてたんだけど、さすがに春、初夏に食べられる梨はなくて、パイナップル食べ始めたら止まんなくなった。止まんなくなったって言っても多分基礎代謝くらいのカロリーしかたってないから痩せないだけ、維持してる。72よ?大デブ。でも大大大ではからは脱した。下着がゆるゆるになった。履けるスカートも出始めた。でもこの大デブのサイズの服買いたくないから、ちいちゃい可愛いパンツ履けるまで、そんな小ぶりなケツになるまでお預けなんだ。

こないだ私の誕生日があった。私は私のために財布とボディオイルを買った。高価な財布を自分で買うのは、多分生涯初めてだと思う。高いブランド物のやつはその時付き合ってる男に買ってもらってた。ブランド物狂いじゃないけど、何か一つ持つと、すこし自分がそれを持つその価値のある人に思える。3年前から欲しかったやつで、その当時に口説いてきてた男にこれ欲しいって頼んでたのにコーチの可愛らしいやつよこしやがって、だからずっとそれを使ってたんだけど、その男は20万をバックれて私の前から消えた。だから財布かえたかったんだ。よかった、可愛いの買えて。息子は私の誕生日だとかなんだとか全然わかってなくて全くいつもの朝で何度声かけても起きない息子見ながら私は少し悲しくなったんだけど、なのでその日のカウンセリング後、新規開拓でマツエク屋を予約して、上下バサバサつけ放題(高額)を選んだ。あれも私へのプレゼント。誰に見られるわけでもないし、誰に痩せたと言われるわけでもないし、そうそう、4月、息子の小学校の顔合わせ懇談会に出た。

 

 

 

次はこないだの話

 

今朝も息子は全然起きてこないので、メール打ってほっといたらやばい時間に起床。

一応新撰組で返してきたので塾ありがとう。

息子的には卵かけご飯かっ込んでダッシュで登校したいところだけど昨日の夜ママはあさりの砂出ししてたからあさり汁飲ませたいし、
それだと野菜がないからバナナとブルーベリーヨーグルトも食わせたい。
それ食って貰いながら昨日母の友人にやっとかけた電話で聞いた衝撃を受け止めようと踏ん張りながらBSニュースじゃなく珍しく地上波観てた。登戸の事件の詳細が知りたかったから。
息子がそんな通魔に殺されたら、息子の葬式出す前に私死ぬと思うくらい悲惨でやりきれない事件で、
死んだ犯人はネグレクト受けてたADHDのひきこもりの50代。
全然人ごとじゃねえし、私もネグレクトとDVを経てまともに生きれてないロスジェネ世代の1人だけど、どうもなんかここんとこフラッシュバック(当時の感覚に戻る)してるっぽくて昨日から何もできない。

私はDV家庭に育ったのは自覚してたけど、養育的にはネグレクトもされてたんだと最近気づいて、あの状況を他の大人は知っていたのか、当時周りに居た大人2人に聞いてみた。
そしたら叔母は知らなかった。それを聞いて、私全く何も発信出来てなかったんだなと知ったし、叔母の家に行くとキチガイの祖母は居たけれどもいつも整っていて安全な豊かな環境のように思えて、従兄弟と叔父の社会談義は親子なのに対等に見えて羨ましかったし、でも私は仕方ないここには生まれてこなかったんだから、と諦めてた。

多少はうちの家のこと、親戚に知られているのかと思っていたけど、全く知らなかったなんてDVや虐待のある家庭で育った子供は世間にSOS出せないんだなと、改めて知ったし、そんな子見かけたら声かけするし通報しようと心に決めたんだけど、
昨日もう1人、思い切って電話をかけた母の50年来の友人は、うちの惨状をまるごと知ってた。

「あんたのお母さんはさ!お父さんのことが好きでたまらないのよ、だから離れられないんだって。それはいい事でしょ?それで添い遂げるってんだからなかなかないよ?あたまがそれでお父さんばかりに行って、
あんたがネグレクトされてたのは一緒に働いてたから知ってた。DVも私の娘すら知ってる。
こんな遅い時間まで家に帰らないで小さい子家に1人にして…とは思ったけど、言えなかったし、助けらんなかったよ。あんたもさ、そんなことは忘れて前へ歩きなさいよ!」

って言われた。

 

そんなこと忘れて前へ歩こうとするたびにつまずいて、だからその真相を知ろうと掘ってったら被DVかつ被ネグレクトだった。


アラフィフでやっと知った。 


その頃、多分私の根本的な承認欲求が満たされていなくて、いつまでも母に認められることに固執するし、認められなくて傷つくし、どう働いていいのかわからないし、世間に対してとても緊張するし、仕事が来ても自信がなくてたまらないんだとわかった。なんとなく。


母はかつ、自分の代わりに私に暴力を受けることと、私に父の世話をさせてた。


けれどそれで彼女からは女としての嫉妬も受けちゃってて、なんだかよくわからないめちゃくちゃな世界に私は居たんだって、やっとわかった。

父の浮気相手がわたしと似てると彼女は言い放ったんだ。後で見てみたら似てるようにも思わなかったけど、彼女の中では似てんだろ。しらんわそんなもん。


さて、どこにもっていってどう正したらいいんだろうこれは。母も父も相変わらず私に弱音を吐き続けては構ってくれ、知ってくれと亡者の如く縋ってくるけど、
でも私が倒れて、シンドイ、タスケテと縋っても彼らは見て見ぬ振りして金を置いてくだけだ。父なんかは

 

「お前のそれは道理に合わないから治せ」

 

とかいうし、話にならない。

お金を頼れない時もあったからその時は本当に追い詰められた。

 

人に話せば、でも金置いてくだけマシじゃないとか、親がいるだけマシじゃないとか、
言われりゃどのサイドからも幸せって言えるし不幸だっだって言えるから、
そしたら私は空爆のない国に生まれたし、身分制度の強い社会には生まれなかったし、
近代的な文化をもつコミュニティで生まれたから幸せなのかもしれない。


で、そっちじゃないところを見るとき、あの時私をみていた大人たちは何を知っていて、何を黙殺したんだろう、と今更恨みが湧く。

 

学校の先生や同級生の親や近所の人は知ってたと思う。
向かいの団地に住んでた児童文学の先生は夜中の怒号を聞き続けてたまらなくなったんだろう、私を度々部屋へ呼んでくれるようになった。
秘密の花園のような大小綺麗な本が迷路のように並ぶ本棚だらけの部屋は私のオアシスの一つになった。けれど私はその時すでに歪んでもいて、彼女が1番大切にしてた綺麗な妖精の本を私はある日盗んだ。
それからその家には行けなくなった。
私のオアシスは私のせいで消えた。

 

これを叔母に話したら

 

「きっとその先生はそれをあなたが盗ったこともわかってて、それでもお家においでと思ってくれてたとおばさんは思うよ」

 

と言ってもらえて、ああそうだなあ、私が彼女ならそう思うなあと、やっと赦された気がした。

 

知らなかった叔母は優しく聞いてくれた。

 

DVやネグレクトを受けてることを当時から知ってた大人は、黙殺して、

 

「そんなこと忘れな!」

 

って言った。

 

忘れよう、自分のために生きようと頑張るたびに転ぶから、ここまで掘る必要があったのだけれど、まあそりゃみんな保身に出るのは仕方ない、母も父も老いが辛い病気がつらいと度々連絡してくるけど、そしてその電話を受けるたびいつ死ぬか、死んだ知らせか、と私はいつも掻き乱されてハラハラするのだけれど、いつもなんてことない、ただ彼らは昔からの関係と同じく娘に甘えてるだけなんだ。

 

私はいつも親戚の中で毛色の違うお荷物として捉えられてると思ってた。現実学歴はないし、職歴もないし、資格もないし、仕事も出来ない。

 

でもあることから、その私のイメージを私と親戚に植えたのは母だと知った。残念ながら。

 

父は勿論気がおかしい。でも母も相当ひどかったんだ。

 

「あの2人はさあ、社会的地位もあったでしょ?そこに対するプライドも大きかったのよね」

と、母の友人は言った。


私が問題を起こして公になるのはどうしても避けたかったことを言ってるんだろう、
そんなエピソードはたくさんあって、なぜあの状態で私を病院へ連れて行ってくれなかったのか、何故親身に治療のサポートをしてくれなかったのか、母は頭のいいバイタリティ溢れる当時では珍しいキャリアウーマンなはずなのに、
何故私のこととなると木偶の坊になるのかすごく不思議だったけど、感情がないわけじゃない、
母の友達とは心交わせるらしいし、やはり聡明でカリスマ性のある女で、1人の男を愛して、その男と生きるために生まれた“副産物の私”は適当に転がして、仕事と男に人生を尽くしたんだなと知った。

転がしてっていうか、元々子供を育てる事に優先順位が低かったのだろう。ナマでセックスはすれど、生まれてくる子のことを思ったことなんてないんだろう。

わたしもそうだ、ナマでヤッたときに妊娠なんて考えやしない。


まあ多分、この理解で方向はあってんだろうと思う。

 

私はそんなこと浮かびもせず、暴れる父から母を守ろうと守ろうと小さい頃からずっと必死で頑張ってきた。震災の時もそう。そう考えると結局母はなんてしたたかな女だったのだと思う。
そして今も彼女はなんの罪悪感も抱くことなく、私はうちのお荷物のままだ。


私は当時の世間を恨んでる。あの時見て見ぬ振りをした大人たちを呪う。ここんとこ、虐待や虐待幇助で逮捕される親たちを見るたびに、こんなことで捕まえてくれるのかと失笑してばかりだ。

でも私が養護施設で育ったら、それはそれでどうなんだろう。

私はいい親がどう言うものかわからないけど、息子には出来るだけサポートしたいと考えてる。

私は母を尊敬してたので、そんな女だったことにがっかりだ。
まあでも、
度々アレ?おかしいな、と思うことは思えばポロポロあった。

信念もそう、ファッションフェミニストっていうか、そんな感じ。なんの信念も貫いてなかったわ。アホくさ。何がアジテーションの女王だ。

息子に言わせてみれば

「おばあちゃんはサイコパス。おじいちゃんはアスペだね」

とのことで、だいたいあってるんじゃないかと思う。

気持ちも話もまとまらないし、お叱り受けるのも嫌なので、観れるの何人かにしよ。

こんな長くまで読まねーよな。ご苦労さん。

 

 

これをどこかに書いた。少し加筆。noteにでも書いて、投げ銭もらおかな。

 

愛はとこしえに。ほしい愛はわたしの手には届かない。

 

シャーロットの贈り物

すごい頑張ってダイエットしてる。結局今日の計測では16kg落ちたって計算。リバウンド繰り返しながらよく頑張ってる。でも今朝、朝起き上がれなかった。息子に「コンビニで朝ごはん買ってきて」と言ってベッドから起き上がれなかった。ごめんごめんごめんと思う。

また元に戻っちゃたらどうしようって怖くなる。だって自分が鬱になるとか、過食症になるとか、引きこもりになるとか、考えられなかった。私はここ20年精神医療治療回復の界隈に居たけど、引きこもりの子たちを励ましたりしながら、私は引きこもりにはならない、だって何にもしたくなくなるなんて私にあり得ないと思ってたし、鬱にもならないと思ってた。鬱って、子供の頃からずっと待ってるアレでしょ?死にたいってやつ、って思ってた。

でも違った。本当に身体が動かない、起き上がりたいと思っても、でかけなきゃと思っても、顔洗う気力すらなくなって、ああ怖い。またああならないとは限らないから、怖くて、かさぶたはがしたヒリヒリした感じを胸に感じながら恐る恐る毎日生きてる。

結局多分、あれは何年前?5.6年前に終わった恋愛に傷ついてこうなっちゃったんだろうと思う。もうあれほど人を信じれない。私は仮面夫婦の人妻だったし、子供が年長さんになって少し手が離れたおかげで出来た恋だった。

わからん、今頭がショートしそうでここに書き始めたけど、これはカウンセラーと触る方が安全だと思う。やめよ。

今、化粧水も美容液も乳液もクリームも塗れてる。鏡を覗き込んで、マツエクつけたり毛穴ピールしたりすら出来る。そうそう、私、こんな感じ、こうだった、ってハッとするやつ。

自分が本当に消えてたんだなと思う。さっぱり…私らしさって、やっぱもう人には渡せられるような重さじゃないから、私らしく生きても彼氏作れない気がして、だからなんか演じてんだけど、今回は演じることが出来なくなったから本当に怖かった。何kg?36kg太ったんだ。キッチンの床にしゃがみこんで、浮腫んだ足は痺れながら、食べ続けてた。お風呂も入らず鏡も見ずに。やめれなくて、怖くて、過食症を調べたら、食べ続けて胃が破裂して死んだ事例を見つけたりした。英語『seven』の『GLUTTONY大食』で殺された男のように死ぬんじゃないかと思った。怖くて仕方がなかった。死んだとき、息子が可哀想過ぎて、だから、息子のためもあるけど、私ももう一回幸せになりたいから、立て直してる。すごくゆっくりだけど、そして考えてた順序でもないけど、立ち直り始めてる。みっともないけど。まだ。

今年、息子の運動会行けるだろうか。

傷つけられて関係を絶った女の子は双子を生んで、国家資格も取ったらしい。昨日知った。旦那さん優しいし強いし賢いし、みんなに慕われてるし、ああいいなあ、って思う。

で、私には何にもないんだけど、息子がいるけど、反抗期が始まって意地悪ばっかり言われてるけど、老いてく途中に急激に太って急激に痩せて、どーなってくのかわかんないけど、でももっかいホッとしたいし、自分に納得したいんだ。

つーか、自分に納得した日なんてこれまであっただろうか?婚約みたいになった時はあったかもな、何にも考えず結婚前提で付き合い始めちゃったから、夢見がちっていうか夢のフィルターで前夫を見てたし、あの時の遅咲きの桜は綺麗だったな。

とりとめないとりとめない。

薬はプロザックを1日120ミリも飲んでる。コンサータストラテラも。肥満外来で処方される糖尿病系の薬も飲んでる。糖の吸収を緩やかにするやつだと思う。

インシュリン的な注射すら個人輸入しようか迷ってる。

がんばろ。どうやって人の世に戻ればいいかわからないけど。

こないだ2年ぶりくらいにデパートの化粧品カウンターに行って、鏡に映ったデブな私はやっぱりお化粧がドロドロ、人に会ってないから化粧具合わかんなくなってるんだなとか思いながら塗り直して貰ってたらその日は3/11で、スピーカーからは2:46に黙祷します黙祷しますって三ヶ国語で言い続けやがって、参って急いで退散してしまった。世間は痛いんだ。車に乗って泣きつつ帰った。

生きていけんのかな。わかんないけど、息子は育て上げなきゃ。そのためには私が私を大事にしなきゃ。部屋、早く片付きますように。

 

痛いことはほじくり返さないようにする。痛い。エイミーワインハウスなんか聞いてる場合じゃないな。CHARAに替えた。

帰ろ。

考察

多分近頃フラッシュバックからくる感情に引っ張られて、息子に不必要に怒声を上げてしまってると思う。怒り方や、話し方が異常に冷たい。こんな人間になりたくない。

 

お風呂はだいぶ入るようになった。基礎化粧も出来ている。以前は基礎化粧しないと眠れないくらい好きだったものを、あそこまで手放したのかとセルフネグレクトしてた当時の自分に改めて驚く。

 

ご飯も前よりは作るようになった。出前が減った。掃除はまだ怪しい。

息子が帰ってきてもうちは常に散らかっている。昼の間、這々の体でどうにか整えた洗濯物や、食卓の上にはまだパン屑が残り、床には埃の髪が絡まってる。

 

息子の塾のスケジュールがハードになり、それになかなかついていけない。

なのに昨日うっかり携帯の中の5年前の写真を見て、当時心の底から依存してた男との事を思い出してしまった。

私はいつも綺麗にして写っていたけど、彼に愛されるためなら家のお金を幾らでも使った。

彼は幼かったんだろう、不義の関係だったけど純愛のように付き合っていた。お互いの時間が合う間だけ。彼が異動になって関係はあっさり壊れた。

子供も含めた私の人生を彼は受け入れなかったから仕方ない。彼が子供と暮らすところなど、ましてや他人の子となど想像出来なかったもの。彼は知り合いのいない土地にきて、私は仮面夫婦に疲れていて、惹かれあったし、子供はまだ小さかったから保育園に預けられたし、だから2人でいる時間が作れて続いてただけで、新たに2人で家庭を創り出すような、築き出すような関係じゃなかったんだ。とおもう。でもあの甘い究極の集中のような時間が恋しくて、何故終わらせなければならなかったのか悔しくて、とにかく、かさぶたを剥がしたような気分になって、それが痛くて痛くて、ええいままよとウォッカをコーラで割って、少し飲んで、息子の塾が終わるのを待った。あまり酔えなかったけど、飲んだ事に自暴自棄な気持ちを表現出来て、だからそれで良かった。

夜ご飯を作って風呂を入れた。

塾に迎えに行って、帰り道遅れている課題について息子から話を聞こうとしたのだけれど彼の言葉に要領を得なくて、私はまた声を荒げてしまった。そして、「ママがこんなに頑張って迎えにきてるのに!」と叫んでしまった。

そんなの息子からしたら知ったこっちゃない。他の子達はみんな帰った後だった。暗闇からこちらに走ってくる息子を愛おしいと感じたのもつかの間、またぐしゃりとあの子の心を踏みつけてしまった。

 

“この感情はなんだ?この感情はどこから?”

 

と戸惑いながら自分の怒りを息子の前では正当化して取り繕って、でも自分ではわかってた。これは息子が悪いんじゃない、またフラッシュバックしてるんだ、それに頭が占拠されるのが嫌で、だから誤魔化して、しんどい、しんどいと思いながら息子の世話してるんだ。

送り迎え、元旦那に頼めばいいのに、それもしづらくて、でもご飯がまたレトルトじゃかわいそうで、ご飯作って、なのに私は声を荒げながら夜遅くに息子にご飯を食べさせてて、何がしたいの一体?って思う。

 

私、いま安全な環境を息子に与えられてない。

嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だって思うけど、手放さなくて、だから、なんとか取り繕う為にここに書いた。

私の大事なのは息子と私で、私を大事にしないと息子も大事に出来ないはずだから、私が私を愛さないと。かさぶたなんか剥がしちゃいけない。

ダイエット、1ヶ月停滞してた体重が落ち始めたのを喜んだんだけど、またそれからもなかなか絶食出来ない。

太い服からおさらばしたいなあと、5年前の自分の綺麗さを見ながら今の自分がみすぼらしくて醜くて哀しかった。

でも快活に動けてたあの時は、夫と口をきかない仮面夫婦で、外にはけ口を見出してただけだよな、今自分を見れる状態になったからこそ、色々なものを思い出してきたり、その感情を味わったら出来てるんだよなと、自分に言い聞かせる。子供にはほんととばっちりで申し訳ないけど。

 

ちゃんとしたい。

仕事して食べていけて、部屋をまあまあ綺麗に出来て、自分のメンテナンスが出来てて、そんなママとして息子のサポートしたい。でも現実はサポートが優先順位1位で、それも満足には出来てなくて、次が家事全般と自分メンテナンス、部屋は1番最後でいつも汚い。

台所で汚れた床を見つめながら、こんなキッチンにする日が来るなんて思いもしなかったとうんざりする。

床拭かなきゃと思いつつ、大きなゴミだけ摘んでとりあえずシンクに入れる。

ああ神様、ちゃんとしたい。もう一回元気になりたい。また誰かに愛されて、綺麗だよ可愛いよって思って貰いたい。

“この感情はなんだ?”に答えを出さないと。答えが出なくてもそれに巻き込まれないようにしないと。

だからそういう時はご飯作るまでしなくていいんだよ多分。マックとかでよかったんだ。

無理しないように気をつけよう。

 

実家の母の体調の問題も深くのしかかる。

でも、もう一回元気な私として生きたいんだ。

優しいママに戻りたいんだ。

 

神様。頑張るから見守って。

 

誰も助けてくれなかったっていう恨みが私の中にあるみたい

フラッシュバック続いてんな、と自覚しながら生きてる。今朝もなんか腹立って息子にチクチクやっちゃって、その後私には味方なんていない、誰も肩を持ってくれないし、知ってる人は見て見ぬ振り、っていうあの悔しさ、あの懐かしい感じ、毎日毎晩涙を濡らしてた子供時代の枕の上を思い出したりしてた。

だから子供の頃はずっと私は月に神様がいると信じて、いつも

『こんばんわ神様』

って書き出しで日記を書いてたんだ。

月に住んでるんじゃなくて、夜の空に穴が空いてて、それが月で、黄色い背景の丸い穴から神様達が覗き込んでる、でも助けちゃくれない、って言うイメージだった。

 

はー。。。これどんどん思い出してくんだろうか。キツイなー。

閉じろ閉じろと、我慢してるけど、子供の方はたまったもんじゃないよな。

私の子に生まれて来てそこはアンラッキーだったね、って思う。

「そこには何か意味があるんだよ」って言った人が居るけど「意味なんてないない」と即答した。まあテキストでだけど。人の生き死にに意味なんてない。じゃあ津波で流されちゃった人たちの死は?難民ボートで地中海に落ちる親子は?

…だから生き死にに何か意味なんてないんだ。

 

今朝元凶の父から電話があって、こちらに来たいと言うので断った。断っても来ちゃうかもしれないけど。

今頃日本中の死ななかった被虐待児が、フラッシュバックを起こして、恨みつらみ痛み諦めを噛み締めてるんだろう。

今回は母親が捕まったからね、もう前までの虐待死とはわけが違う。

見て見ぬ振りも犯罪ですよ、と、通報するのが市民の義務ですよと、そう言うことが明言化されたってことだよね。

虐めもそう、知ってて助けないのはいじめてる側と一緒。なんでこんなの噴き出ちゃうかね。

私はなんとか痩せて、また綺麗にお化粧して、仕事して、頑張って生きたいのに。

困ったなあ…

特になんの薬も効かないし、相談する先や愚痴聞いてもらう先もないし、まあこんなこと愚痴られても困るだろうし、

昔のカウンセラーに「あなたの事を丸ごとわかってくれる人はこの世にいない」って言われて、えーまぢでーいるかも知んないじゃーん、て思ったけど、無理だわ、居ないわ。つか、ほんと人に渡す内容じゃないわ。わかんないだろうし。愛されてるって思える家族と暮らした人にはわかんないわ。

しかもこれ何年前?もう30年とかもっと前とか。

私はどうして助かったんだろ。人格障害とかにならずに。なんか、私の中の防御機能が効いてたって事だよな。

なんなんだろ。二面性かな。

で、今はその二面性が保てなくなって、デブでブスであまり動かなくて困ってるって言う。

あー胃が痛い。困ったな。なんか、楽になる方法ないかな。頭の中も身体もめっちゃ苦しい。

フラッシュバック

止まってしまった。

 

何もかもではない、けれど動き出したものが止まってしまった。止まってから1ヶ月経ってしまった。

 

息子の部屋は少しは床見えるけど、私の部屋はなんの整理もされていないゴミやら衣類の混ざった資材置き場みたいになってる。ブルーシートも敷いてるし、ますますそんな感じだ。

それを毎日見るたびにうんざりする。

 

洗い物を溜め込んだキッチンにうんざりし、

色柄ものと一緒に洗っちゃった白いバスタオルがグレーになったのにうんざりし、

埃は後から後から出てくるからいつも部屋の隅は埃だらけで、うんざりする。

 

 

私このところ、ずっとフラッシュバックを起こしてるんだなということにやっと気づいた。

PTSDの再演をやっちゃってる。息子に怒鳴り散らす。そのあと謝る。これはDVだ。DVの再演をやってしまっている。

 

やっとやっと、自覚出来たけどもう息子には呆れられてて

 

「はいはい、また謝るんでしょ」

 

なんて言われるからどうしていいのかわからない。

 

1月半ばから更におかしくなった。

母は私の事を、私が息子を想うようには大切に考える能力がなかったんだ、と分かってゾッとした。

 

これまでいろんな場面で、何度もあれほど助けを求めても、彼女は、帰ってこいやら代替え案やらは全く出さずに、

「どうしたらいいんでしょうね?今日は仕事でね…」

と話を流してしまう。

 

辛いんだ辛いんだ辛いんだと、子供の頃から彼女に発信し続けていたのに取り合ってくれなかったのは、理由や原因はよくわからないけど、例えばアスペルガーなのかなんなのか、乖離なのか、とにかく私の叫びを感知するセンサーが彼女にはもともと無かったんだ。

産んだ子供を、育て導く生き物として見ていなかった。

愛してないわけじゃないらしい。

けど、

『愛するということは例えばこうすること』

というものが悉く私と違っているんだ。そう、理解はしたけれど、でも、でも、わかって欲しい、とほぞを噛む。

 

こないだの千葉の虐待死の事件で、母親が殺人幇助で捕まって、私の中で更に何か動いた。

 

子供を産んでから観る虐待死のニュースは毎度辛くて仕方なかったけど、なんとか慣れて来てた。

 

でも今回は母親が捕まった。起訴されるかどうかはわからないけれど、社会的責任を放棄したという、これは罪。犯罪だ。

でも彼女が、娘に暴力が向かっている時には私は殴られないで済む、と考えるのはとてもよく分かる。私の子供時代だ。

 

夜中父があんまりにも暴れると、母は寝ている私を起こして(まあ怒声で目は覚めてる)家を飛び出た。

パジャマのままの私の両腕をそれぞれ父と母が握って、「これは俺の子だ!」「私の子よ!」と団地の階段の上と下から引っ張り合われたこともある。

そして命からがら母の友人宅に逃げ込むのだ。

 

何度かそれをやったある日、母はその友人から夜中家に来ないでくれと言われる。

 

隣の家の奥さんには

「ご主人、お酒が問題なんだと思うから、酒害の病院行ってみたら?」

と諭されたらしい。

それからどこだかでも相談して、

 

『ご主人が暴れている時に娘さんと一緒に出ないほうがいい』

 

的な事を言われたそうだ、それから母は暴れる父のもとに、私を置いて逃げるようになった。

 

母曰く、

 

『そのまま自分が居続けたら殺されるかもしれないけど、自分の血の繋がった娘なら夫は殺しはしないだろう、だから娘を置いていこう』

 

となったらしい。

 

だから私は小学生中学生の頃、母が飛び出た後の家で父と二人きり、荒ぶる父を宥めて寝かしつける役になった。

父が吐く母への罵詈雑言を聞き流し、

あの女は売女だなんだと大声をあげる父のお酌をし、

心臓の具合が悪い胸の音を見てくれと言われれば胸に耳を当て、

不整脈が出ていないか見てくれと言われれば腕で脈を取り、

肩が痛いマッサージしてくれと言われて腕を揉んだり背中を揉んだりして、

ブツブツ文句を言いながらそのうち父は眠くなって寝室に倒れてイビキをかき始めたら、私は父の寝ている部屋の襖をそっと閉めて、

今度は家の電話に張り付いて、公衆電話からかけてくる母のコールを家の電話口でリン、ともならないうちに受話器をあげ

 

「パパ寝たからもう帰って来ていいよ」

 

と伝える。なんかそんな役目になった。

 

とか何とかしてたら今度は仲裁役として叩き起こされて、彼らの話しを私のお気に入りの曲が入ったテープに上書き録音されて、どっちの言い分が理に適ってるかをジャッジする役目になった。

物凄くめんどくさいし、眠いし、母を悪者にすると父は尚更怒りをぶちまけるから、なるべく両成敗で、慎重に言葉を選んでなんとか収められた日もあった。

無理な日もあった。そんな翌朝は寝不足で学校に向かった。

そして私が大きくなるにつれ父の期待や依存は私に向くようになってきて、それに適わない時には怒鳴られたり殴られたり蹴られたりするようになった。

 

私は幼い頃から親の金を盗んでは友達に奢って夕方遅くまで一緒にいてもらっていて、それが見つかっては殴られたり怒鳴り散らされたりしてた。

夜母が戻るのが遅かったから寂しかったんだと思う、それからファンシーショップの可愛らしい文房具を買う事で、自分の空虚感を満たそうとしていた気もする。洋楽のカセットもたくさん買った。付属で付いてきたポスターをはっていたら怒られついでにビリビリに破られた。

 

 

今回の事件には死んだ女の子が親に児相宛の手紙を書かされていた。

 

それを見て、いきなり私が何枚も書かされた念書を思い出した。古い大きな水色のテーブルの上に、父の職場か母の職場のロゴが入った紙を置かれて、何度も何度も書いた。

 

「盗んだ金は遊興費に使いました。二度とやりません」

 

とかなんとか。拇印も押したかもしれない。その隣には

 

「早く書いちゃいなさい」

 

と小声で急かす母が立ってた。

 

今回の事件で、この日本でやっと母親が殺人幇助になるのなら、罪に問われるのなら、殺されないまま大人になった被虐待児の件はどうケリつける?って気持ちになった。

 

父からの暴力で母が乖離してしまって記憶をほとんどとどめてないのはわかるし、

私がしていない事まで父の妄想で夜中まで私を責め続けた父と母は罪に問えるんじゃない?(私がカラオケボックスで男とヤッたと決めつけた。してない。男と行ってない)

その日あんまりにも責め続けられて、「男とカラオケに行ったことを正直に言え!」とかことを言われ続けて手首を切った。

手首を切ったら、「ごめん、私たちが悪かった」って言ってくれるかなと思ったのだけれど、親を傷つけるためにやったなとまた怒られて、病院へは体裁を気にして直ぐには連れて行ってくれなかった。

血は朝まで止まらなくて、病院に行かせたくない父を母が説得して私と母は近所の小さな外科医院に行った。

外科医は「なぜ直ぐ連れてこない!」と母を叱ったそうだ。

私も朝まで起きていなきゃでしんどかったのを覚えてる。意識を失って病院で目が覚めてうなだれる親達、とかはドラマの中の絵空事だと知った。

 

私が中学受験に失敗して行った公立中学に父が校則の件で唸り込んで行った事があった。

先生は社会的にまずまずの地位の父が吐く人権とか憲法とかにヘトヘトに疲れて、私を見放した。当時生徒数も驚くほど多かったし、厄介な親のイジメにあってる生徒なんて面倒だったんだろう。私は3年間イジメに合いながら家では酷いDVにも合い続けた。私を目の敵にした体育の先生は生理で休んだプールの日、1時間中丸々校庭を走り続けろと指示した。イジメだなあ…と思いつつ、クラクラしながらぐるぐる校庭のオーバルを走った。

そのことを知ってた先生達は、じゃあ罪に問える?

 

私が殴られてる事を知っている友達の親達も沢山いた。ねえ、じゃあ、あの人たちも裁けるの????

 

と、考えてしまった。

 

実際には、めちゃくちゃ不憫に思ってくれていたのは知ってるし、怒号を聴いていた向かいの団地の人は「娘さんうちに遊びに来させて」と母に声をかけた。児童文学の研究をしているどこかの女子大の先生だった。遊びに行ったけど、秘密の庭みたいな洋書に囲まれた部屋で、私は彼女の大切にしていた本を盗んだ。そして、行きづらくなって行かなくなった。

 

あの当時、世間は他所の家の事情に立ち入る時代じゃなかったし、だから知っていた人達にもどうしようも手の施しようもなかったんだとわかる。

 

わかるけど、でもじゃあ母は?

あの人私をライオンの檻に投げたよね?それ、罪に問えるよね?  って考え始める。

 

でも父に逆らえない、従属するしかなかったのもわかる。あれは暴力に寄るマインドコントロールだ。

私も未だ父に逆らえない。

だから逆らう為になのか、なんなのか、何も言わず、見せず、小さい頃から悪行を沢山働いた。大人になったらもっともっと悪くなった。

 

なんとか更生して人の親になったけれど、

未だ父には逆らえない。最悪だ声も聞きたくない顔も見たくないと思うけれど、逆らえない。

 

父を嫌う私に従兄弟が

 

「でもお父さんの言うこと聞くよね、」

 

と言った。

嫌いならば言うことを聞かないものなのか、でもそんな選択肢はなかった。

もし逆らったら1万倍で返ってくるだろうし、だから思いもつかない。恐怖に支配されて、全く逆らえなかったんだ。

 

父に殴られてたある日、もう頭に来て殴り返そうとした事もあった。胸ぐら掴まれながら私が腕を振り上げると、

「なんだ!?親に手をあげるのか!やれよ!ほら!ほら!」

と私の手首を握って自分の頰に軽く当てた。

そしたら私は殴れなくなって、でも漲る拳の引っ込めどころもなくて、なので代わりに自分の顔を殴った。結構ボコボコにした。そしたら鼻血が勢いよく出て、それを見た父が

 

「馬鹿なやつだ!」

 

とか捨て台詞を吐いて、私を離した。

 

そうか、血を見せればいいんだ、と、それからはよく流血沙汰にした。

 

母は今病気で、だからもう今更こんなこと言ったって届かない。だいたい何も覚えてないし。

 

「あなたは小学生の頃は手のかからない子だった」

 

なんて、私が同級生の親から

“あの子とは遊んじゃいけない認定”

受けてたことを忘れてる。

何もかも忘れてる。

父の暴力の話をした時、

 

「私はその時そこにいたの?」

 

とか言う。私は彼女を守り続けたつもりだった。

そして彼女は忘れてる。

生きるための乖離なんだろうけど。

 

だから彼女は

 

「私が見ている景色とあなたが見ている景色は違う」

 

なんて言う。

でも事実うちは酷いDV家庭だった。近所が知っている。

 

「よく人格障害にならなかったね」

 

と、2人の医者から言われた。二回別々に言われたから多分そうなんだろう。

私多分めちゃくちゃ精神が強いんだ。

ビリーミリガンみたいになっちゃってもおかしくないのか、ってことだ。

 

そして、そのフラッシュバックが出ているここのところ、私は息子にトラウマの再演をしていたんだ、と気づいた。

 

去年も今年も年明けは気づきがあるな。

 

気づいたところでどう扱っていいのかよくわからないのだけれど、まあとにかくママが狂ったら逃げてくれマジごめんと伝えるしかない。

 

あの、私が座っていた食卓のテーブルの手触りを思い出した。後ろにあった食器棚も、台所の西側に開いた窓も。

 

涙が止まらないと鏡をみて、

「ブスが泣いていても絵にならないから泣くな」

と涙を止めた。

 

私、あれ小学生とか中学生とかだったよな、と、あのテーブルの席に座る私が可哀想で可哀想で、逃げるって選択肢なんてなくて、死にたいと毎日思いながら耐えてたなと思い出した。

 

父から怒られた次の日、学校から帰りたくなくて友達の家に行って、泊めてもらうことになって、それを友達の親がうちの親に電話したら

 

「誘拐罪で訴えるぞ!!返せ!!」

 

と相手の親脅して、

 

「ごめんな、うちでは無理だわ…」

 

と言われながら夜の街に帰された事もあった。

居場所がなかった。仕方がないので帰ってまた叱られた。

 

思い出したらきりがない、

気持ち悪いことも沢山あった。

まあでもともかく、そんなのが良く生き延びて、ぐちゃぐちゃながらも子育てして、子供にはごめんなあと思う。要らないめんどくささをあんな無垢な子に与えることになってしまった。

 

 

お風呂は入れてる。

歯磨きも。

歯医者にすら行った!

部屋は片付けられてない。

朝ごはんは作れる。

 

また食材を買って腐らしては有料ゴミ袋に入れる日々。

洗濯はしてる。

 

自己嫌悪とばかり戦ってる。

 

生きることは苦痛だと、子供に教えてしまっていた気がする。

 

生きることは楽しいんだ、好きなことすればいいんだって教えたい。

 

母の治療の話も、もう聞きたくないけど電話が掛かってくる。

 

「もしもの時はお前が助けろよ」

 

と、泥酔した父に言われた。

 

私もなるべく頑張りすぎないようにしよう。

まだ溢れかえるフラッシュバック。

 

愛を感じて育った人の子たちは、ちゃんと愛を伝えられているだろうな。

前夫はダメ男だけど、親には愛されてると自覚してたから、まだマシなのかな。

 

うちの家は

『家族なんだから』

という呪文で覆いかぶさってくる。呪縛だ。

 

もやもやしたまま、取り敢えず書いてみた。